名器は存在するか?   ~身体に隠された魔法 ~

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(手のひらのフォノグラム、フラクタルという性質を持つため、
身体の一部のフォノグラムさえ取れれば、全体の情報も分かってしまいます。
手のひらだけの図形調整(部分按摩)だけでも、身体全体の情報を修正することができます。)

非対称性とカウンターバランスと題した、シリーズでは、
主に楽器の物理的側面に着目して、考察を進めてまいりました。
しかし私は、楽器、特にヴァイオリンについて言及する時には、
「人間の身体」について同時に考えなければならない必要があると思います。
なぜなら、ある人には名器は確かに存在するが、
ある人にはそんなものは存在しないからです。
そのへんの数十万の楽器も、名器と言われているような楽器も、
たいして違いが解らないという意味です。(お酒の判定も同じですね。)

これは、「主観的」な問題として簡単に片付けていいような問題ではありません。
ここで取り上げようとしている問題は、「感受性」という人間の能力についてのことです。
なぜ、大人になると感受性がなくなってしまうのか?
内部緊張がある状態は、フォノグラムで渦巻きだらけの状態です。
この時、ヴァイオリンは鳴らない楽器になります。

人間は肉体が成長するにつれ、同時に自我意識が形成されていきます。
赤ちゃんの時は、肉体は形成されておらず、組織は柔らかいままで、柔軟です。
そして、自我が形成されていないため、知性は育っていないが、
感受性の塊、生命力の塊といって良いであろうと思います。

赤ちゃんの肉体から、フォノグラムを取ると、本当に綺麗です。
音もふんだんに含んでいます。
組織が硬くなり、肉体が形成されていくというのは、
いわば、柔軟な組織を少しずつブロックのように固め、
地上世界で動きやすくするための交換条件のようなものかもしれません。
つまり、柔軟性や統一性(対称性)を犠牲にすることにより、
肉体と知性を形成していくというのが今の人類の形態のようです。

さて、感受性の正体というものが少し見えてきました。
今の人類社会は、肉体が強く、知性があるものが最上であるかのように思っているようですが、
それすらも、統一状態からの、崩れた姿に過ぎないということなのです。

「天子君子は無能無才でなくてはならない」

という老子の言葉の意味も理解できるでしょう。
(ちなみに、老子の思想や黄帝大経のような、一見、物語でしかないような書物も、
フォノグラムを理解していきますと、単に事実を記しているに過ぎないことに驚かされます。
フォノグラムを知っていたとしか思えません。 私は「道」という概念を、
現代科学の水準で、焼き直しているだけなのかもしれません。)

身体の柔軟性と精神の柔軟性は、やはり比例しているように思います。
「感受性というのは、身体的能力の差である」
と言ってしまってもいいです。
こういうわけで、感受性が異なる人間同士が、
楽器についての統一見解を持つというのは難しいのです。

しかし、これは、単に主観的な問題ではなく、感受性という能力の差の問題であり、
またそれは、身体的能力(身体的健康状態)の差にすぎないといいたいのです。
失ってしまった感受性、柔らかさをどう取り戻せばいいのでしょうか?
その為に、古来から様々な技法が伝えられてきました。
フォノグラムはそれらを統一的観点から説明することを可能にします。